丸善ボタン株式会社は、戦後すぐ昭和26年に、個人商店として現在と同じ大阪天満橋の島町に生まれ、昭和30年に丸
善ボタン株式会社としてスタートしました。
創業者は、久保善九郎。私の祖父にあたります。祖父は愛媛県に生まれ育ち、戦前に大阪へ出てきたのち、太平洋戦争
が始まったため一時的に兵隊召集され、その後なんとか生還して再び大阪に戻ってきました。そして、丸善ボタンを立ち
上げます。

ボタン配達中の久保善九郎です。時代はまだ創業前のおそらく戦争前後と思われます。
このころはもっぱら配達は自転車かスクーターでした。
どうして、丸善ボタンという屋号になったのか。
というのは最初のお得意先さんの一部お名前をいただいたと聞いています。また、自分の善九郎という名前もちょっと
もじってみたのかもしれません。
もともと、明治時代のころから、現在の大阪天満橋〜谷町4丁目にかけての地域に、紳士既製服関係の店舗・会社が
集まっていたと言われています。なぜ、この地域に集まってきたのでしょうか?
古くは徳川家茂が大坂城に入城したころ、さらにその後、明治維新、西南の役のころに遡るようです。
その頃から大阪城周辺に軍、役所関係の人々が集まる拠点が多かったことから、軍服・制服を中心とした製造業が
発達し、西南の役後はその払下げを受ける卸、小売業が発達したと言われています。
その後、明治中後期からは、一般人々向けの洋服製造、仕入れが進み、地方への販売が始まり、本格的な既製服の
時代に入ります。
その名残で、昭和の時代も繊維、服飾の町として西の大阪谷町、東の東京神田、岩本町が知られることとなります。

昭和30年頃の丸善ボタンの正面入り口です。
YKKファスナーの看板が大きくかかっています。このころはみんな住みこみで働いていたので大家族で、さらにご近所
の方々もいつもどこかしらで集まっていたので、とにかく人の多いにぎやかな生活だったようです。

昭和30年代の島町通りの風景です。ほとんどが木造住宅で車もほとんど通っていないみたいです。現在の風景から考
えるとここ30〜40年間の変化が速かったんだなあと改めて思います。
こうして、スタートした丸善ボタンは戦後から昭和の時代を駆け抜けて、鉄筋コンクリートの現在の建物に変わります。

ちょうど昔の写真と同じ位置から撮影した現在の島町通りです。周りの建物もほとんどがビルに変わっています。
緑がほとんどなかった道路には、木々が大きく育っています。
平成に時代は変わってすでに20年を超えています。日本・大阪の経済状況、業界市場も大きく様変わりしました。
グローバル化の中、大阪谷町に多く集まっていた繊維・服飾各社も数が減り、街の産業も様変わりしてきています。

昔の会社の入口にかかっていた表札(古すぎて字が見えません。。)と利用していた請求書箱、祖父が愛用していた大
きなそろばんが現在の社内に残っています。
昔の世代から引き継いで、そろそろ、私たち1970〜80年代生まれが日本を支えていく時代です。
変化のスピードが速く、日本も世界も大きな社会構造の転換期のただ中で、私たちの世代はどんどん成長して伸びてい
く時代を知りません。答えがない中で、もう一度今人々の暮らしに何が必要とされているか?という原点に戻って考えて
いきたいと思っています。
商品企画やワークショップ、サロンなど新たな試みの中での人のつながりが拡がり、次の企画が生まれてきます
皆様に支えられて、おかげさまで今日を迎えることができています。今後とも、スタッフ一同精進してまいりますので、
丸善ボタン株式会社、Maruzen Button Gallery、shop&showroom
BotaBuroをどうぞよろしくお願いいたします。
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